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治験翻訳A to Z
  キーワードで考える治験翻訳の世界
東京医科歯科大学非常勤講師
アルパ・リエゾン株式会社代表
有馬貫志
第5回   Evidence Based Medicine
 
  Evidence based medicine is the conscientious, explicit, and judicious use of current best evidence in making decisions about the care of individual patients. The practice of evidence based medicine means integrating individual clinical expertise with the best available external clinical evidence from systematic research.

David Sackett, et al. "Evidence Based Medicine: What It Is and What It Isn't" British Medical Journal 312, no.7023 (1996)
 
科学的根拠に
基づく医療
  科学的根拠に基づく医療とは、現在の最良の科学的根拠を入手し、実直、明確かつ慎重な態度を以って個々の患者の治療法決定に活用することである。科学的根拠に基づく医療行為とは、医療者個々人の経験による臨床判断に、体系的な研究の成果から得られた最良の臨床データを統合することである。

治験翻訳A to Z、前回は医学研究における被験者または患者の保護と権利の尊重を謳ったヘルシンキ宣言を取り上げ、医療者が守るべき倫理的原則、つまりは医師の持つべき心構えのようなことをお話しました。しかし、医療者がいくら患者尊重の意識を持って診療に臨んだとしても、肝心の診断と治療が最良のものではなかったら、せっかくのすばらしい心構えであっても、それを生かすことはできません。治験翻訳A to Z第5回目は、ここ10年来医療界でよく耳にするEBM 、Evidence Based Medicineという考え方を紹介し、EBMと治験との関わりを考えてみたいと思います。
 

Evidence Based Medicineという提言

上記の引用文は、EBMの父とされるオックスフォード大学のサケット教授(最近退官されました)の有名な論文の中に示されているEBMの定義です。訳文ではEvidenceを「科学的根拠」としていますが、医療界ではそのまま「エビデンス」として使われています。では、「エビデンスに基づく医療」は、これまでの医療と何が違うのでしょうか?上記の定義によれば、EBMの提言とは、「現在入手可能な最良の研究成果やデータを積極的に診断及び治療に活用しよう」、「これまで医師がその経験の中で培ってきた知見と、体系的な研究成果を統合しよう」、という働きかけだと考えられます。同論文の冒頭には、次のような簡潔な答えが示されています。

It's about integrating individual clinical expertise and the best external evidence.

エビデンスということが意識されるあまり、EBMが診療における医師の主体性を脅かすものではないのか?という危惧の声も聞かれるようですが、サケット教授自身の言葉によれば、強調されるべきなのはエビデンスそれ自体ではなく、経験的医療と体系的研究成果の「統合」であることが分かります。

EB Mはなぜ必要なのか?

EBMの考え方をはじめて知った方の中には、「医師が治療をするときに、これまでの研究成果を踏まえるのは当然のことで、別に新しい考えでもないのではないか?」という疑問を持つ方もいらっしゃるでしょう。実際はどうなのでしょうか?ある調査では、診断時にエビデンスを活用しているのは58%程度であるという報告もあるようです。患者としては気になるところですね。

少し視点を変えて、エビデンス活用の決定的な事例を見てみましょう。ご紹介するのは1991年のNew England Journal of Medicineに掲載された「Mortality and morbidity in patients receiving encainide, flecainide, or placebo. The Cardiac Arrhythmia Suppression Trial.」(N Engl J Med. 1991 Mar 21;324(12):781-8.)と題された論文で、Cardiac Arrhythmia Suppression Trialの頭文字をとってCAST STUDYとして数多く引用されている報告です。

この試験は「designed to test the hypothesis that suppression of ventricular ectopy after a myocardial infarction reduces the incidence of sudden death」とあって、「心筋梗塞後の異所性心室期外収縮(不整脈)の抑制が死亡率を下げる」という仮説を検証するために、抗不整脈薬であるencainideとflecainideをそれぞれプラセボと対照させて無作為化二重盲検試験を行ったものです。その結果、心筋梗塞後の抗不整脈薬が有効であるとするこれまでの仮説が覆ることになりました。結論には以下のように書かれています。

There was an excess of deaths due to arrhythmia and deaths due to shock after acute recurrent myocardial infarction in patients treated with encainide or flecainide.

つまり、encainideとflecainide投与群では、プラセボ群を有意に上回る死亡率が確認されたということです。逆に言えば抗不整脈非投与群のほうが成績がよかったということですね。結果的にこの試験ではencainideとflecainideの継続投与は倫理的に問題があるとして中止されました。

EB Mのインパクト

ここで思い出されるのは医聖ヒポクラテスの言葉です。有名な「Ars longa, Vita brevis.」(芸術は長く人生は短し)の後には 「Experientia fallax, Judicium difficile」(経験は欺き、判断は困難である)という言葉が続きます。実際、医療行為が必然的に多くの不確実性を内包するものであるのなら、その不確実性を少しでも低減させようとするのがEBMの考え方であると言えるかもしれません。従来の経験的医療に体系的な研究成果による根拠を加えることで、不確実性を減らし、再現性をもった医療行為を確立していくための提言であると言ってもいいでしょう。問題は、その根拠を日常の医療行為の中にどのように持ち込むか、というところにあります。医師だけが、そうした情報の検索や分析を含めた全ての重責を負うのは事実上無理な話です。臨床行為者としての医師のほかにエビデンスの提供者(例えばエビデンスライブラリアン)との連携が重要になってくることは避けられず、今後更に医療行為のパラダイムシフトが進んでいくものと思われます。

EBMと治験の役割

最後にEBMと治験との関係を確認したいと思います。EBMにおける治験の位置を知るために、ここでエビデンスとなる情報の種類を考えてみましょう。従来の経験的医療においても、もちろん様々なエビデンスが使われてきました。患者個々の臨床データや医師の経験や勘といったものです。EBMの定義にある「external evidence」は通常「外的な根拠」と訳されますから、これには個の医療者以外を情報源とする意見やデータが当てはまりますね。医療チームの他の医師の意見や、テキストやガイドライン、確実性の高い論文なども含まれます。では、そうした「外的根拠」の中で最も信頼性の高い情報はどこから入手できるのでしょうか?実は治験の役割はそこにあります。治験は臨床試験の中でも特に厳密に管理され、GCPによってグローバルスタンダードが保証された科学的なデータを提供するものです。つまりEBMの提唱する根拠の中核として治験のデータが使われているのです。上記のCAST STUDYでも二重盲検、無作為化、プラセボ対照という治験ではスタンダードな試験方法が採用されており、試験結果に十分な確実性と信頼性を付与するのに役立っています。現在及びこれからの医療の趨勢であるEBMにおいて、治験の果たす役割はこれまでになく重要であると言えるでしょう。

『通訳翻訳ジャーナル』2006年12月号より転載