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治験翻訳A to Z
  キーワードで考える治験翻訳の世界
東京医科歯科大学非常勤講師
アルパ・リエゾン株式会社代表
有馬貫志
第4回   Declaration of Helsinki
 
  Medical progress is based on research which ultimately must rest in part on experimentation involving human subjects. In medical research on human subjects, considerations related to the well-being of the human subject should take precedence over the interests of science and society. (A-4, A-5)

* World Medical Association
http://www.wma.net/e/policy/b3.html
 
ヘルシンキ宣言   医学の進歩は、最終的にはヒトを対象とする試験に一部依存せざるを得ない研究に基づく。ヒトを対象とする医学研究においては、被験者の福利に対する配慮が科学的及び社会的利益よりも優先されなければならない。(A-4, A-5)
**日本医師会訳 http://www.med.or.jp/wma/helsinki02_j.html

治験翻訳A to Zの第4回目は、前回「倫理的大問題」の項で少し触れた「ヒトを対象とする医学研究の倫理的原則」を扱ったヘルシンキ宣言を取り上げます。ヘルシンキ宣言は世界医師会によって定められたもので、医学研究における被験者または患者の保護と権利の尊重を謳ったものです。そこには治験に係わる仕事に従事するすべての人にとって、正しく認識すべき重要な基本精神が述べられています。治験翻訳者もまた、この宣言を知ることで昨今の治験が目指す大局的な目的と、遵守しなければならないコンプライアンスを理解することが必要です。
 

ニュルンベルグ裁判がもたらしたもの

医の倫理に関する宣言は、早くは古代ギリシャの「私はすべての医療行為を患者の利益のために行い、決して患者を傷つけたり有害な影響を与えたりはしない」という「ヒポクラテスの誓い」に見られますが、直接的な契機となったのは第二次世界大戦時のナチスによる強制収容所での医療実験を告発した、ニュルンベルグ裁判です。その告発の中で悲惨な人体実験の実態が明らかにされ、1947年にその判決文からニュルンベルク・コードと呼ばれる倫理原則が生まれました。判決文の「許可できる医学実験」と題する節には、人体実験の普遍的な倫理基準が明文化されました。そこには、被験者の自発的な同意が絶対に欠かせないこと、動物実験と自然の経過に関する知識に基づいていなければならないこと、リスクが利益を上回ってはいけないこと、科学的に資格がある実験者が行わなければならないこと、被験者はいつでも自由に実験を中断できなければならないことなど、すでにヘルシンキ宣言の基本原則が見て取れます。

世界医師会の設立とジュネーブ宣言

ニュルンベルグ裁判と同年の1947年には世界医師会が設立され、翌年ジュネーブで開催された第2回総会でジュネーブ宣言が採択されました。そこには、

・ 私の患者の健康を私の第一の関心事とする。
・ 私は、私への信頼のゆえに知り得た患者の秘密を、たとえその死後においても尊重する。
・ 私は、たとえいかなる脅迫があろうと、生命の始まりから人命を最大限に尊重し続ける。また、人間性の法理に反して医学の知識を用いることはしない。

などの医師としての倫理規範に関する基本精神が、患者優先、患者の秘密保持、生命の尊重といった形で明言されています。

ヘルシンキ宣言の採択

その後「医の国際倫理綱領」などを経て、1964年ヘルシンキで開催された第18回世界医師会総会で、医に関する倫理規範を更に進めたヘルシンキ宣言「ヒトを対象とする生物医学的研究に携わる医師に対する勧告」が採択され、その後の総会で多くの重要な修正がなされました。最新ののヘルシンキ宣言では「A. 序言」「B. すべての医学研究のための基本原則」「C. メディカル・ケアと結びついた医学研究のための追加原則」という構成となっており、全体で32項目の基本精神が述べられています。詳細は、英語原文が世界医師会のホームページ、日本語訳は日本医師会のホームページをご覧ください。

インフォームドコンセント

ヘルシンキ宣言に謳われている数々の被験者または患者尊重のポリシーの中から、インフォームドコンセントについて考えてみましょう。この言葉、最近ではすっかり社会に浸透していますが、皆さんはどのように解釈していますでしょうか?インフォームドコンセントを得るための文書は、一般に同意説明文書と呼ばれています。つまり、「被験者が受ける治療についての説明をして、被験者の同意を得るための文書」という意味ですね。世界医師会によるヘルシンキ宣言や1981年の「患者の権利に関するリスボン宣言」の流れを受けて、平成15年7月30日に厚生労働省が示した「臨床研究に関する倫理指針」には、次のように定義されています。

被験者となることを求められた者が、研究者等から事前に臨床研究に関する十分な説明を受け、その臨床研究の意義、目的、方法等を理解し、自由意志に基づいて与える、被験者となること及び試料等の扱いに関する同意をいう。(1-3-9)

大切なのは「十分な説明」と「自由意志」です。この定義は被験者側からの立場で書かれていますが、治療を施す側への指針としてわかりやすく考えると、「これまでのように、不十分な説明しかしないで(または何の説明もしないで)、半強制的に治療をしてはいけない。」と言っていることになります。皆さんは治療を受けるとき、その内容について事前に「十分に」説明を受けているでしょうか?またそれが重大な治療である場合、文書に署名をしているでしょうか?ヘルシンキ宣言が採択された1964年当時、日本の医療界にそうした慣習があったとは思えません。治験では、被験者の参加同意を得るためには、治験の目的、治験の方法、予想される利益、潜在的な危険、治験参加と同意撤回の任意性を明記し、文書で同意を得ることが必要とされています。

ヘルシンキ宣言と治験翻訳者

ヘルシンキ宣言は、一言で言えば医療従事者のコンプライアンスについての宣言です。翻訳者には翻訳者のコンプライアンスがあるわけですが、治験翻訳者のコンプライアンスは何でしょうか?第一に考えられるのは守秘義務と被験者データの尊重ですね。皆さんが病院で診察や検査を受けると、そのカルテはデータとなって残ります。そのデータは誰のものでしょうか?病院のものではなく、それはあくまでも患者のものです。そうした情報尊重の重要性を、個人情報保護に関する啓蒙活動では、「データにも人格がある」という言葉を使って説明しています。さすがに治験総括報告書や統計報告書に含まれるデータから人格を想像することは難しいですが、ぜひ、我々も情報を尊重する精神を共有したいものですね。「治験翻訳者は白衣は着ていなくとも医療従事者である」という認識と共に、今一度ヘルシンキ宣言を読んでみてください。



『通訳翻訳ジャーナル』2006年10月号より転載